歌舞伎役者

歌舞伎のきほん

歌舞伎の歴史について簡単にまとめました。江戸初期から明治以降の歌舞伎まで。

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「歌舞伎」という文化は、いつの時代から始まったのでしょうか?「能」より後に誕生したと言われていますが、その歴史は江戸時代初期にまで遡るようです。

ここでは、長く波乱万丈でもあった歌舞伎の歴史について、まとめてみます。

歌舞伎はいつから始まったのか?

前田慶次郎

前田慶次郎

関ケ原の戦い後の1603年頃、異風を好み、奇抜な服装で着飾り、世間の秩序に反した行動をする「傾奇者(かぶきもの)」と呼ばれる男の人たちがいました。有名な、伊達政宗や前田慶次郎などが「傾奇者」だったようです。

この「傾奇者」をまねた奇抜な扮装をして、茶屋などで男性が遊ぶ様子を踊り、一躍人々から人気を得た踊り手がいました。歴史上一般的に「出雲の阿国」と呼ばれている女性です。

『当代記』という史料の中に、「出雲の巫女を名乗る国という女性が、京に上り」傾奇者の扮装をして踊ったものを「かぶき踊り」と呼んでいた、という記述があります。

歌舞伎の始まりは、この「かぶき踊り」からと言われています。

女歌舞伎から野郎歌舞伎へ。変化を重ねた歌舞伎

歌舞伎役者

阿国が創始した「かぶき踊り」は、遊女や女性芸人などからも多く真似され、当時最新の楽器であった三味線と合わせて踊っていたそうです。その人気は京のみに留まらず、江戸や地方でも興行され、広まっていきました。

女性たちが踊る「女歌舞伎」は大変流行しましたが、その踊り手の多くを遊女が担っていたこともあってか、1629年頃に幕府により「風紀を乱す」として禁止されました。

その後、女性ではなく元服前の美しい少年が演じる、「若衆歌舞伎」が人気を博しました。この「若衆歌舞伎」は、徳川三代将軍・家光の時代に大流行します。

しかし、この少年たちまでもが、またも世間の風紀を乱すとして、1652年頃に幕府から禁止令が出されてしまいます。

しかし世間では、すでに「歌舞伎」がひとつの文化として、欠かすことのできない娯楽となっていたようです。「若衆歌舞伎」の禁令のあと、前髪をそり落とした“野郎頭”の成人男性が演じる「野郎歌舞伎」が流行りを見せます。

「若衆歌舞伎」の時は、美少年が女形を演じていたようですが、「野郎歌舞伎」では、技術的に女性らしさを表現する女形専門の俳優が育っていきました。

また、歌や踊りが中心だった演目から、ストーリー性を持つ「狂言」が上演されるようになり、それが登場人物の細かな設定や、役の幅の広がり、演技術の向上などに繋がっていきました。

歌舞伎と江戸時代

歌舞伎演目

「野郎歌舞伎」と呼ばれた時代は1688年頃に終わり、その後歌舞伎は江戸と京・大坂で、それぞれ異なった発展をしていきます。

江戸では、初代市川團十郎が「荒事」と呼ばれる力強い芸風で人気を博し、京・大阪では、柔らかく優美な初代坂田藤十郎が活躍します。当時、人形浄瑠璃の作者で人気だった近松門左衛門は、坂田藤十郎のための歌舞伎作品を、多く執筆しています。

近松門左衛門につきましてはこちらの記事にまとめています。詳しくはこちらをご参照ください。

歌舞伎の劇場前風景
近松門左衛門とは?代表作は?歌舞伎とはどんなつながりがあるの?

近松門左衛門とは、江戸時代初期に上方で活躍した、人形浄瑠璃(文楽)の脚本家です。しかし、当時大人気だった歌舞伎役者、初代・坂田藤十郎に作品を提供するようになり、歌舞伎にも深く関わるようになりました。 ...

また、1716年頃から全盛期を迎えた人形浄瑠璃で上演された演目は、次々に歌舞伎化して上演されました。これを「義太夫狂言」と呼びます。中には、現代でも何度も再演され、演者にとって大きな役割を担っている作品もあります。

1804年頃から、江戸を中心に町人文化が華やかになっていきます。この頃の歌舞伎では、有名な『東海道四谷怪談』の作者・鶴屋南北が活躍しています。

1841年になると、天保の改革で歌舞伎は取締りの対象になります。一旦は歌舞伎の廃止も検討されたそうですが、結局、幕府から許可を得た中村座・市村座・河原崎座の三座が、郊外の浅草に移転することで、興行を続けられるようになります。

この場所は「猿若町」と呼ばれ、芝居小屋は改革が緩み始めてから幕末まで、大変な賑わいを見せたそうです。

明治以降の歌舞伎の役割

明治の歌舞伎の興行風景

明治の歌舞伎の興行風景

明治になると、外国の要人や高官が鑑賞する対象として、時代考証に忠実に作られた演目の上演や、劇場の改革が行われました。

政府は、歌舞伎を文化的地位の高い芸術にすることを目指し、1887年には天覧劇(天皇の観劇)が実現します。しかし、史実に忠実な「活歴物」は観客の支持を得られず、衰退していったそうです。

明治から大正にかけては、欧米の演劇や小説に影響を受けた作品が、上演されるようになっていきます。演技や演出も、近代的に発展していき、「新歌舞伎」と呼ばれるようになりました。

新歌舞伎で新たな顧客層を得ながら、古典歌舞伎も新しい演出法などで継承され、現在に続く「家の芸」が確立されていったのが、大正から昭和にかけてと言われています。

第二次世界大戦後の1945年9月、空襲で焼け残った東京の劇場で、歌舞伎は再開されたそうです。しかし、演目の内容が民主主義に反するとして、連合国総司令部(GHQ)の判断により、歌舞伎は存亡の危機に立たされます。

それでも、各方面の関係者の尽力により、1947年には歌舞伎作品の全面的な上演が許可され、1951年には、歌舞伎座が再建されました。

1962年には、60年間途絶えていた市川團十郎の名跡が復活し、この十一代目市川團十郎の襲名披露興行は、「歌舞伎ブーム」を巻き起こすほどの大人気だったといいます。

昭和の後半になると、現存する最古の舞台小屋「金丸座」で歌舞伎が上演され、江戸時代の芝居の雰囲気が楽しめると好評を博しました。

また、海外での歌舞伎公演や、市川猿之助による「スーパー歌舞伎」の上演など、平成の時代になってからも新しい流れが活発に起き、今後の世代へ向けた、新しい歌舞伎への挑戦が続いていっています。

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